【余白の美】
今朝の出来事です。
駅前の駐輪場に自転車をとめようとしていた時、急いでいたので小さな隙間に自転車を滑り込ませようとしてとなりの自転車にタイヤがぶつかってしまいました。
するとその自転車はスタンドをロックされていなかったようで、はずみで前に飛び出し、倒れてしまいました。
「あー、やっちゃった。急いでるのに・・・」と頭の中で呟いた瞬間、横から
「ちょっと、そういう事しないでくれる?」と大きな声がしてびっくり。
見ると、いつもは優しい駐輪場の整理をされている男性でした。
その威圧的なエネルギーに普段感じているのとは違うものを見て、
「え??この人にもこんな一面があるのか…」と驚いたのと同時に、この怒りのエネルギーを受け止めると決めて「すみません」と謝っている自分がいました。
男性はまだ感情を爆発させていて、「困るんだよ」と大きな声で話し続けています。
「すみません、わざとやったんじゃないんです」と言って自分の自転車のスタンドを立て、倒れた自転車を起こそうとすると男性は「ああ、あーいいですよ、やりますから!」と私を止めようとしましたが割って入れず、倒れた自転車を起こす私の後ろで「こうやって自転車をバタバタバターっと倒しちゃってそのまま行っちゃう人がいるんだよ!」と怒っています。
「本当にすみません」と言って去ろうとする私に「わざとじゃないのかもしれないけどさ、たまたま(現場を)見た人には言わせてもらうんだよ。今度は気を付けてよ!」と。
モヤモヤする気持ちを感じながら、なぜあんな態度をとられたんだろうと考えていました。
振り返ると
・彼は自転車が倒れた瞬間に怒りを爆発させていた
・倒れた自転車は1台だったのに、彼の中では「バタバタバターっと」倒れるたくさんの自転車が見えていたように感じる
・同時に私は倒した自転車を起こさずに逃げる「犯人」に見えていたみたい
・私が倒した自転車を自分で起こしてしまうと、「犯人」ではなくなるので、怒りを爆発させている自分と現実に矛盾を感じたのかな、最後の捨て台詞は彼の中で自分の感情と起きていることを調和させるために必要だったのかも。
きっと、彼が言うような事が最近起きたのでしょう。その時に嫌な思いをされたのだと思います。
過去にはこうなった、だから今回もこうなるに違いないというイメージが生まれ、「自転車を倒した私」=直さず去るに違いないとなってしまったのかも。
電車の時間もせまっていたし、その方の心の内を見る事はできませんが、そんな事を思っていました。
予定していた電車に乗り、先週の学びの場で教えてもらったことについて思い出していました。
「満ち足りる」という事。
それは、もう食べられませんというお腹いっぱい状態ではなく、「腹八分目」という状態なのだそうです。
ほどほどに。
すべて必要なことは今ここにある。
できていないこと、足りていないところじゃなく、できたこと、すでにある豊かさに気づく。
生きているだけで素晴らしい事だと知る。
日本には余白の美という文化があります。
それは人としての在り方にも通ずるのね、と合点が行った今朝の出来事でした。
余白を持てると、きっと次のご褒美がもらえる気がします。
「満ち足りる」マイブーム到来です。

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